ささやかな幸せ

今日学校で自転車の鍵が無いことに気付いたのだが、どうせ朝急いで来たから自転車に挿しっぱなしにして来てしまったのだろうと思ってあまり深く考えなかった。いざ、午後6時30分位に駐輪場に着いて自転車の鍵穴の部分を見ても鍵は無い。ふとハンドル部分を見ると今日の画像*1にある紙片がホチキスで留めてあった。その紙には「鍵を1F事務所でお預かりしていますお立ち寄り下さい。」と書いてあった。その通りに1階の事務所に言ってみると、担当のおじいさんは次のように話した。
「今日たまたま来た掃除のおばさんが落ちていた君の鍵を拾い、どの自転車の鍵穴に合うのか調べてくれたのだ。やたらと鍵穴に鍵が入りにくかったので、私がついでに油を差しておいたよ。」
なんと心優しい人なのか。鍵を拾い、どの自転車の鍵かを調べもし、鍵穴のことまで心配してくださるとは。自転車が盗まれなかったことはもちろんだが、まさに、最近鍵が挿し難くなっていて、油を差そうと思っていた所だったのである。そのおじいさんにはその場で丁重に謝意を表せずにはいられなかった。
最近は友人どころか家族さえも信じることが出来ない世の中になって来ている。そういった風潮の中で、他人のことを気遣い、親切心から人をしてささやかな幸せを感じさせるような行動をとれる人の存在は貴重なものだ。今日のおじいさんの例では、おじいさんは別に油をさしてやったり、鍵がどの自転車のものか特定しなくてもよかったのである。
人間の社会的な関係は多かれ少なかれ互いの信頼に依存している。自分が信用しない相手の言うことは拒絶することや自分が信用している相手の言うことを疑い無く受け入れてしまうことはその例である。人間は信頼無しには生き得ないのだろうが、その根本的な信頼が揺らいできているなかで今日このような体験をしたことは、僕にとっては非常に印象的だった。
逆に言えば、ある人にとってはとてもくだらない部類に入るこのような体験に対して、ささやかな幸せを感じるというのは、僕自らが「信頼」を欲しているが故なのだろう。人間の「信頼」は非常に揺らぎ易い。足元が不安な竹馬のように。ならば、いっそ全て捨ててしまうのか、それとも、絶対に安定することのない「信頼」に関して安定させるように努力を怠らないのか。僕は後者を取ろうと思う。